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『京都市今昔写真集』収録写真のブログ・ミニ写真展

   『京都市今昔写真集』のブログ・ミニ写真展

 ここでは、『京都市今昔写真集』に収録される写真から、ごく一部をを選んでご紹介いたします。観光客に知られた観光都市「京都」という側面ではなく、あくまでも京都市に住む方々の生活史・庶民史を写真で回顧する完全地域密着の大記録です。心ゆくまでご覧ください。
詳しくは本書で!


【風景の今昔対比】

   パレス劇場(旧景)   パレス劇場(現在地)
パレス劇場の今昔(左/昭和35年・下京区 右/現在地) 四条寺町下ル貞安前之町にあった龍池山大雲院の境内に設営された巨大な映画館・パレス劇場。もとは昭和28年に建てられたアイススケート場だった。手前に写る寺は春長寺、右は浄教寺と京都府労働会館で、その奥が永松小学校。映画館の右隣に隠れているが少しだけ見えるのが大雲院のモダンな本堂である。おそらく四条寺町南西角の藤井大丸の建物から撮影したものであろう。遠く東山方面には建仁寺や八坂の塔が見える。
 大雲院は昭和48年に現在の東山区園町南側に移転、パレス劇場はそのころ閉館になった。現在跡地は高島屋と駐車場になっている。右写真は、左のものより少し北東から撮ったもので、春長寺や少し見える浄教寺はそのままだが、周囲を高層建築が取り囲み、眺望や景観は一変している。(提供=(財)世界人権問題研究センター、撮影=符川寛氏)

   河原町六角(旧景)   河原町六角(現在地)
河原町六角付近から北を望む(左/昭和20年代・中京区 右/現在地) 
河原町六角の京都宝塚劇場の前から北に河原町通を望む。ひときわ目立つ大きなビルは京都朝日会館である。その向こうに少しだけ見えているのは京都ホテル。右端に映画館・京劇の看板が見える。左端のポスターに見える「これがシネラマだ」は、昭和27年の公開。同年に公開になった「風と共に去りぬ」がロングランを続けていた。朝日会館に垂れ幕がかかっているのが分かる。河原町通の両側の歩道にはこの頃アーケードが付けられる。
 現在写真は、河原町三条南西角より北に朝日会館を望んだもの。昭和47年に朝日会館は新しいビルに建て替えられ、昭和52年には市電の河原町線も廃止された。河原町通界隈にいくつかあった映画館も今は東宝公楽のみになった。京劇はボウリング場などのアミューズメント施設になり、京都宝塚劇場も平成18年をもって閉鎖され、跡地には平成20年に、商業ビル「ミーナ京都」が開業した。(提供=森榮一氏)

   京阪三条(旧景)   京阪三条(現在地)
メトロタワーより京阪三条駅を望む(左/昭和30年代・東山区、左京区 右/現在地)  木屋町通、さざんか亭六角店のビルを当時メトロタワーと呼んだ。そのメトロタワーから東、地下線化される前の京阪三条駅、岡崎方面を望む。
 右の写真は現在の同所。京阪本線の東福寺〜三条までは昭和62年に地下線化され、跡地は川端通となっている。京津線も地下鉄東西線の開通に伴い平成9年に三条〜山科間が廃止された。三条通沿いの住宅も、集合住宅になったり、現代的なものに建て替わり、この一帯は大きく変化している。(提供=森榮一氏)

      山科駅前(旧景)   山科駅前(現在地)
山科駅前の今昔(左/昭和25年頃・山科区 右/現在地)  現在の外環状線と三条通の交差点から北の国鉄山科駅方向を向いて撮影。左に見えるのは昭和13年開設の山科公設市場。食料品はもとより燃料や雑貨、衣類まで暮らしを支える日用品はここですべて揃った。迷路のように入り組んでおり、奥は薄暗く、なかなかスリルのある市場だったが、平成4年12月末日をもってその役割を終えた。
 現在の同所には、平成9年に市営地下鉄東西線が開通し、それにあわせて山科駅南側一帯の再開発が進められた。公設市場を含む一角は、再開発ビル「RACTO山科」となり、外環状線の東側もRACTO-C、Dと呼ばれるマンションや商業施設に変わった。
(提供=宮澤政子氏)


   新大宮商店街(旧景)   新大宮商店街(現在地)
新大宮商店街の賑わい(左/昭和30年・北区 右/現在地)  上京区から分かれて北区ができた(昭和30年)頃の新大宮商店街。今宮通と大宮通の交差点から北西の一角を撮影したもの。昭和の初め、京都市では市街地が周辺部に拡大し、紫野地域にも区画整理によって新たな住宅地が誕生した。大宮通はこの地域と市の中心部を結ぶ道路として北に延伸され、延伸部分が「新大宮」と呼ばれて商店街となった。
 道からいきなり店頭であったかつての商店街は、舗道が整備され、街路樹も植えられてすっかり様変わりした。他都市に比べ、京都市中心部では大規模小売店の割合が低く、命脈を保っている商店街がまだまだ多い。(提供=石野力示郎氏)


   朱雀二条商店街(旧景)   朱雀二条商店街(現在地)
朱雀二条商店街の盛況(左/昭和35年・中京区 右/現在地)  太子道(旧二条通)と七本松通の交差点付近の商店2階から、太子道を東に見たところ。朱雀二条商店街は、東西では千本通〜御前通まで、南北では太子道〜押小路までを範囲とし、全長で1500メートルにもおよぶ商店街を形成していた。昭和30年代は写真で見るように買い物客でごったがえした。太子道の奥の方に山陰線の踏切、二条中学校の校舎が見える。
 かつて食料品を扱っていた藤昌商店は閉店したが、フジ井、アラキムセンや福田食料品店など昔ながらの商売を展開している店舗も残っている。同じ建物の店舗が多い。
(提供=(財)世界人権問題研究センター、撮影=符川寛氏)


           伏見大手筋商店街(旧景)   伏見大手筋商店街(現在地)
大手筋商店街(左/昭和34年・伏見区 右/現在地)  京阪電鉄伏見桃山駅前から少し商店街を西に下った両替町通付近から西を撮影。豊臣秀吉が築いた伏見城大手門に通じるメインストリートとして開かれた大手筋は、陸軍第十六師団設置や桃山御陵参拝客の増加もあって、大正期以降、伏見で最も大きな商店街に発達した。アクリル板が特徴的な街灯は昭和32年に完成した「蝶型」と呼ばれるタイプで、当時珍しさから話題になったという。下駄ばきの人がまだまだ多い。
 現在地の写真を見ると、右手のセンターパチンコや左手前の八百清など、たくさんの店が今も同じ所で営業している。昭和46年にはアーケードが完成して、全天候型の商店街が実現。現在も400メートル余りの通りに100店舗余がひしめく。(提供=池上清司氏)


               雨の新京極(旧景)   雨の新京極(現在地)
雨の新京極(左/昭和30年代・中京区 右/現在地)  昭和30年代はじめの新京極商店街。雨降るなか、灯ともし頃の京の歓楽街に人の温もりが行き交う。トリスの看板を掲げるトリスバーも、今宵は寒さしのぎのお客さんで賑わうだろうか。この時代の新京極を肌で知っている人は、昭和30年に大ヒットした「カスバの女」のメロディーを思い出すかもしれない。夕闇せまれば商店街から夢も悲しみもある大人の街に変わった。
 現在では全天候型のアーケードに覆われ、道路も装飾タイルが敷かれて、すっかり装いを新たにしている。かつての新京極に林立していた映画館(左の写真にも見える)は、姿を消した。一方で、土産物店など観光客目当ての店は現在も変わらず賑わっている。
(提供=(財)世界人権問題研究センター、撮影=符川寛氏)



【街角の情景点描】

梅津小学校台風で倒壊
室戸台風で倒壊した梅津尋常高等小学校(右京区 昭和9年)  台風の目が京都を通過したのは朝8時過ぎであったので、登校するのも大変であったと思われるが、小学校に着いてからも大変であった。この梅津尋常高等小学校では、校舎の風下の講堂に生徒が避難した後、校舎がつぶれ、風が直撃し始めた講堂から高等科の生徒が下級生をうまく誘導して近くの田に避難させた直後に、講堂もつぶれたのであった。少しでも避難が遅れていれば、大惨事になっていたであろう。9月。(提供=林忠治氏)

白川女
白川女愛国婦人会(左京区 昭和10年頃)  白川女といえば季節の花を箕に入れて売り歩く姿が有名である。京都では1日と15日にサカキ、仏花、荒神松を替える家が多いので、白川女は月末と月半ばに3日ずつ荷車に花を載せて売り歩いたが、その間にはこのように頭上に花をいただいて売り歩いた。「花いりまへんかぁ」という声でなじみの客は出てきて、買ってくれるのである。その白川女が愛国婦人会のたすきをかけている。愛国婦人会は、昭和6年に起きた満州事変以降、農村救済活動とともに戦死者の遺族や傷病兵を援護する大衆運動を担った。北白川。(提供=田中くめ氏)

肥とり
肥とり(左京区 昭和17年頃)  かつて最も大切な肥料は人糞尿であった。田植え前に1反(300坪)あたり肥桶40〜50杯分まいたのであるが、それだけの量を自宅だけでは用意できない。そこで近郊農家は、京都市中心部のなじみの家までもらいに行った。ただし無料でもらってくるのではない。農家は肥を汲ませてくれる「肥得意」に米や餅、野菜を毎年お礼として渡していたのである。しかし昭和10年ごろからお礼をしなくなり、昭和25年ごろからは逆に汲み取り先がお礼をしてくれるようになった。化学肥料が使用されるようになり、人糞尿への依存が小さくなっていったからである。そして下水道が普及してくると、人糞尿は下水として流されるようになり「農村から都市へ作物を、都市から農村へ人糞尿を」という循環が消えた。一乗寺才形町。 (提供=野村祐三郎氏)

防空壕
防空壕(山科区 昭和19年)  京津国道に面した自宅に掘った防空壕である。竹で壁の崩れを防ぎ、その竹を杭で支えておさえていることがわかる。かぶっているのは防空ずきん。この時期、外出するときはいつも防空ずきんをかぶっているという人もあった。竹鼻竹ノ街道町。(提供=宮澤政子氏)

闇市
闇市(中京区 昭和24年)  農家に米の供出を強いても食糧不足は解消されず、配給だけでは腹がすいて仕方がなかった。それでも何かを食べて生きていかなければならない。そこで闇市へ行き、少々高くても食べ物を買って、命をつないだのであった。12月2日午後3時。新京極蛸薬師東入ル。(提供=野村祐三郎氏)

丸物百貨店屋上
娯楽に目が向き始めた頃・丸物屋上遊園地(下京区 昭和28年頃)  高い建物がまだ珍しかった時代、その高い建物である百貨店の屋上にある飛行塔に乗ると、まわりを見渡せ、爽快であったに違いない。しかし、昭和37年に東京の建築安全条例において屋上の2分の1を広場にすることが定められ、以後、それに倣い全国各地の百貨店屋上遊園地は縮小されていった。そして電鉄沿線遊園地に客が移っていったのである。(提供=宮澤政子氏)

平安高校野球部
戦後の復興を後押しした平安高校野球部の全国制覇(南区 昭和31年)  第38回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)で優勝した平安高校(現龍谷大学附属平安高校)野球部の凱旋パレード。優勝旗を載せたオープンカー、ジープ、バスという編成で、京阪国道を九条通にさしかかったところ。一行はこのあと府庁を表敬訪問した。平安高校は春、夏の甲子園出場64回、優勝3回の強豪校として全国的に知られている。
(提供=(財)世界人権問題研究センター、撮影=符川寛氏)


ホウレンソウ
ホウレンソウの選別(南区 昭和35年頃)  冷蔵庫などない時代、新鮮な野菜を届けるため、農家の人はリヤカーなどで毎日のように町へ野菜あきないに行った。しかし毎日のことともなると、ほんのわずかな高低差、距離差が身体にこたえてくる。産地は都市化とともに少しずつ郊外へ移っていくが、できるだけ京都に近いところが産地となっていた。上鳥羽。
(提供=ナカヨシ書店)


八百屋の店先
八百屋の店頭(上京区 昭和35年)  冷蔵庫が普及しておらず、輸送手段も発達していなかった時代、人々が野菜を買うとすれば、振り売りに来る近郊の農家からか、近郊農家から品を仕入れる八百屋からであった。ナイロンやビニールはまだあまり普及していなかったので、包装に新聞紙を使っていた。自転車は大きな荷物を載せることができるように荷台が大きくなっている。西洞院中立売上ル。2月。(提供=幡谷芳三氏)

豆腐売り
豆腐売り(上京区 昭和34年)  豆腐屋さんはラッパを鳴らしてやってくる。そのラッパの音を聞いて、大きな容器を持って外に出、豆腐屋さんを呼び止め、豆腐を買うのである。豆腐がプラスティック容器に入れられて売られているわけではないのでゴミは出ない。道は未舗装である。西洞院通中立売上ル。9月26日。 (提供=幡谷芳三氏)

京都市電「北野線」
西洞院五条を行く北野線(下京区 昭和36年)  京都の路面電車は、明治28年2月1日に京都電気鉄道(京電)により日本で初めて開通した。写真は同37年、四条西洞院〜京都駅前間の堀川線延長によって開通した区間である。京電は市街地の路線建設コストを抑えるため、両側に民家が迫っていない通りや、少しでも広い幅員がある通りを路線に選択した。かつて西洞院通には中央に川が流れていたが、暗渠化されて周辺の通りよりも幅員が広がった。そこでこの区間に線路が設けられたのである。車種は狭軌1形21号(旧N121)。北野線が廃線となったのは昭和36年7月31日。(提供=奥田辰次氏)

京都市電平面交差
京阪四条駅前の京阪電車と市電の平面交差(東山区 昭和47年)  京阪四条駅前で平面交差する京阪特急1810系と京都市電1600形。京都市電の線路は国鉄や近鉄の線路とは立体交差をしていたが、京福と3カ所、京阪と4カ所で平面交差していた。この四条通踏切は遮断機がなかったが、電車と歩行者の接触事故はなかった。市電四条線は昭和47年に廃止、京阪電鉄は昭和62年に地下化され、平面交差はもちろん地上の線路まで消えた。写真の7号甲系統は現在、207号系統に代替され、当時と同じ区間で運行している。また、写真に写る1600形1605は解体を免れ、京都市で保存されている。(提供=森榮一氏)

針供養
法輪寺の針供養(西京区 昭和40年頃)  法輪寺は嵐山の中腹にある真言宗の寺院で、「針供養」は毎年2月8日と12月8日に行なわれる。大きなこんにゃくが用意され、参拝客はそこに大きな針を刺し、針仕事の上達を願う。呉服産業の盛んな京都ならではの庶民信仰の姿である。(提供=(財)世界人権問題研究センター、撮影=符川寛氏)

シェー
大流行した「シェー」(伏見区 昭和40年代初め)  昭和37年から『週刊少年サンデー』で連載が始まった赤塚不二夫の『おそ松くん』では、脇役のイヤミがする「シェー」を、全国の子どもたちが真似をして遊んだ。大阪万博を訪れた浩宮殿下(現皇太子)もカメラに「シェー」で応えたものである。(提供=ナカヨシ書店)


 この写真集にあふれているのは、戦前戦後をひたむきに生きた京都市民の堂々たる人生記録です。
 われわれ取材陣は、庶民生活の横顔が克明に刻み込まれた未発表写真を求めて、京都市内とその周辺を足を棒にして歩きました。
 その結果、1万数千枚におよぶ膨大な記録写真を収集することができ、今回そのなかから珠玉の350点を厳選してお届けします。
 樹林舎の今昔写真集シリーズは、失われゆく写真ばかりでなく、皆様の思い出を記憶の底から呼び覚ますきっかけを提供いたします。


             
 限定出版『京都市今昔写真集』

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